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彼女の福音

弐拾捌 ― おめでとうございます ―

 その時、リビングの空気はあたかも雷雲の中にいるかのようにピリピリしていた。

「ね、ねぇ勝平。今はどんな記事書いてるわけ?」

「……」

「そうだね、今は寧ろ今まで見てきたことで改めて感じたこととかかな」

「……」

「ふーん。そうなんだ」

「……」

「確かに前みたいにいろんなところに行ったりはしてないけど、でも椋さんと一緒にいられるから幸せだよ」

「んんっごほんおほっごほぉん」

 不意に僕と春原君は背筋を伸ばして、リビングにいる第三者、及びこの家の所有者である藤林敬一さんに恐るおそる目を向けた。

「や、失敬。私に気にせず続けてくれたまえ」

 そうは言うものの、先ほどから変わらぬ仏頂面といい、射すくめるような目といい、全く持って生きてこの家を出れるか怪しいところだった。

 

 

 

 

 

 

 事の起こりは二日前。僕と椋さんが自宅で椋さんのおいし「そうな」夕飯を食べている時のことだった。

「あ、電話だ。今出ますね」

 そう言って椋さんがテーブルを離れた隙に、僕が口の中にあった「野菜炒めだったらしい」物をゴミ箱の中に入れたのは、絶対に誰にも知られちゃいけない秘密だ。

「勝平さん」

 しばらくして、椋さんが僕を呼んだ。

「お母さんが、今年の大晦日は家族みんなで過ごさないかって」

「あ、そうだね。僕は椋さんといられるんだったら、それで全然問題ないよ」

「……勝平さん、岡崎君みたいなこと言ってます」

「それはね、椋さんが可愛いからだよ」

「勝平さん……」

 

 

 

 

 

「大丈夫か、朋也?風邪を引いてしまったんじゃないだろうな?」

「あ、ああ。大丈夫だ。何でだ、今急に鼻がむず痒くなったんだ」

「そうか……気をつけてくれな?お前に倒れられたら、私は……」

「智代……」

「朋也……」

 

 

 

 

 

 

『ではお待ちしてますね』

 電話口の向こうからお義母さんの声を聞いて、僕達ははっと我に返った。慌てて挨拶をしたが、その晩はずっと、こう、親馬鹿もいいところな男にずっと遠くから睨まれているような気がしてならなかった。

 さて、大晦日になって僕達が藤林家に到着すると、待っていたのは

「あらあら、椋ちゃん、勝平さん、こんにちは。わざわざごめんなさいね」

「いえ。ご無沙汰してます、お義母さん」

「寂しかったですよ。椋ちゃんと勝平さんなら、いっそ私たちと暮らしてくれても構わないくらい、一緒にいてほしいんですから」

「お義母さん……」

 孤児だった僕にも、居場所はあるんだなぁ、という感動と

「椋ちゅわぁあああああああん」

「あ、お、お父さん」

「よぉっく来てくれたね、椋ちゃん。ささ、早くおいで。パパと一緒にい〜っぱい、あ、い〜っぱいお話しようね〜」

「……」

 相変わらず僕ってお義父さんからハブられてるなぁ、という苦い現実だった。

 しばらくしてから、杏さんと春原君がやってきた。そしてその後、ちょっとした大晦日の掃除があったわけなんだけど

「よし、貴様ら、よもやとは思うがうちのかわいいかわゆい娘達に、汚い掃除とかさせるつもりじゃないだろうな?まずはトイレから始めて、一階と二階、くまなく掃除して来い。あ、何でもないよ、杏ちゃん。あ、そうだ。いやぁパパね、最近部下に勧められて、面白い番組にはまっちゃったんだぁ」

 とはお義父さんの言葉。僕と春原君がげんなりしたのは言うまでもない。とまぁ、年末の掃除は僕と春原君がほとんどやることになったんだけど、時々お義父さんがこっちに様子を見ては

「おお、すまんすまん。雑巾がけのバケツを蹴飛ばして、水がこぼれてしまったようだ」

「春原君とやら、ここにはまだうっすらと埃が溜まっておるぞ?貴様、うちの杏ちゃんが歩く廊下の、杏ちゃんが外を眺めるかもしれない窓に埃が溜まっているとは、恥ずかしくは思わんのか?」

「柊君、チミチミ、ここの掃除は全くなっとらんではないか。もう一度やり直して来い。全く、こんなんで椋ちゃんの夫などと名乗るのもおこがましいもんだな、ふはははは」

 だのと、昼のドラマでしかお目にかかれない舅ぶりを遺憾なく発揮してくれたわけだった。僕もまぁ、お義父さんのそういうところには一応慣れているつもりだったから何とか我慢できたけど、春原君がブチ切れずにせっせと掃除をやっていたのには驚いた。

「だって、まぁ、僕の扱いっていつもこんなんだから」

 と笑いながら言う春原君をみて、僕はものすごく同情した。せざるを得なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 そんなこんなで掃除を終えると、僕達の天使達が用意してくれた暖かい料理が、僕達を待ち受けていた。

 でもね

 そうなんだけどね

 一体、誰が「天使の作るご飯=うまい」だなんて決めたんだろう。少なくとも僕じゃない。

 年越し蕎麦は、杏さんとお義母さんが茹でたらしい。こしがあって、湯で加減も最高。これぞ蕎麦だわかったかこのメリケンにヨーロッパのすっとこどっこいめスパゲッティなんて目じゃないぜげはははは、と言いたくなる様な出来だった。

 しかし藤林家では昔からそれとは別にちょっとした炒め物をおかずにするのが慣わしで、これが椋さんの領域だった。

「さあ春原君に柊君。今日はとてもよく頑張ってくれたね。たくさん食べてくれたまえ。特にこの椋ちゃんの手作りの炒め物なんて絶品だぞぉ」

 笑顔で言うお義父さんだったが、細く開けた目が、ぜんぜん笑っていなかった。というか、「食え、さもなくば……」という邪気がこもっていた。

「さぁどうだね、春原君?杏ちゃんの料理もうまいが、椋ちゃんのもめったに食べられないぞ?」

「あれ?お父さんは食べないの?」

 するとお義父さんは悲しそうな笑顔を浮かべた。

「椋ちゃん、パパはねぇ、前に健診を受けたときに、油物は控えるように、と言われてしまったんだよ」

「え?そ、そうだったの……ごめんなさい」

「いいんだよ椋ちゃん。寧ろこっちのほうが都合がいい……じゃなくて、まぁ、とどのつまりは私に気を使わずに食べてくれ」

 ごくり、と僕は唾を飲み込んだ。確かに椋さんは料理がうまくなってきていて、今なら普通に食べられるときも増えてきているけど、大体四食に一度の割合で「ポカ」をする。僕はさっと最近食べた料理の味を思い出して、背筋が凍る思いがした。過去二日間において、つまりこの夕食を除く五食において、料理は普通においしかった、いや、今までになく好調だった。だから

 もうそろそろ、ポカをやる時だった。

「じゃ、じゃあ、いただきます」

 春原君が箸を伸ばす。待て、慌てるなっ!これは孔明の罠だっ!

 箸がキャベツらしいものを摘む。お義父さんの目が冷酷に笑う。

 口が開かれる。杏さんが目を瞑って祈る。

 咀嚼。

「あ、おいしい」

 春原君の一声に、緊張の緩む空気。お義父さんだけは苦虫を噛んだような顔だったけど、他のみんなは笑顔だった。

 ごめんね、椋さん。そうだよね、椋さんだってお料理うまくなるよね。ごめんね、信じてあげられなくて。僕、夫失格だね。

「そうですか、うれしいですっ」

「うん、いや、この歯ごたえがね、絶みょ……」

 そこで春原君は白目をむいた。そして一瞬硬直した。いや、絶対に意識を失ったんだと思う。次の瞬間にはテーブルに突っ伏して、拳でテーブルを二回叩いた。

「ど、どうしましたか?」

「陽平?ねぇちょっと、大丈夫?」

「きょ、杏……あれに手を出したら……」

 前言撤回。とんでもなくまずそうだ。おいしいまずい、って意味じゃなくて、状況的にやばそうだ。久しぶりにとんでもない大ミスをしちゃったらしいです、うちの椋さん。

「何だね春原君、そんな大げさなリアクションをしなくてもよかったじゃないか。そんなにおいしかったかね?」

 勝ち誇るようにお義父さんが言うが、春原君は返答できるような状態じゃなかった。

「さぁ柊君もどうぞ」

 僕はさっと頭の中で計算をした。今の視覚的破壊力−(僕の免疫+春原君の無警戒による防御力ダウン)+春原君のタフさ=僕が食べた場合の被害=

 ……最悪だ。

「あの、勝平さん?」

「な、何でもないよ、椋さん。あは、あはははは」

 頬を冷や汗が滴り落ちる。僕は震える手で箸を伸ばした。

 ああ椋さん。例えこれの元凶が君の手料理だったとしても、僕は君のことを愛し続けて、天国から君のことを見守ってるよ。

 杏さん、春原君をよろしく。あと、岡崎君と智代さんにもよろしく。僕も、次に生まれ変わってくる時は運命の人の定義に「料理が化学兵器じゃない人」って項目を入れとくよ。

 お義母さん、お世話になりました。つかの間でも、僕には温かく見守ってくれる家族がいると思えて、幸せでした。

 お義父さん、アンタだけは地獄に落ちろ。

「あ、あーん」

 神は死んだ。

 

 

 

 

 

 

 僕に意識が戻ったとき、僕達はリビングに移動していた。全くもって意識がなかったんだけど、どうやら無意識のうちに動いていたらしい。というか、あの料理がある部屋にあれ以上いたくなかったんだろう、本能的に。ちなみに杏さんとお義母さんの作ったおいしい麺のほとんどはお義父さんが食べたらしい。ムカッ。

 そして冒頭に戻るわけである。杏さんは春原君に「リビングで待ってなさい、すぐそっちに行くから」と言い、椋さんは僕に「ちょ、ちょっとリビングで休んでいたらどうですか、勝平さん」と労わってくれ(たらしく)、お義母さんはお義父さんに「あなたにやらせるわけにはいきませんよ。これは台所を守る女の仕事です」と宣言したので、三人が食器の片づけをやっている間、僕達はリビングで待機することになった。

 しかしまぁ、僕達がそのまま泡を吹いて病院行きにならなかったこともあってか、お義父さんはさっきからあんまり機嫌がいいとは言えず、リビングには重い空気が沈殿していた。

 その時、急にガタン、という派手な音が台所からした。

「椋?!」

「椋ちゃん?」

 杏さんとお義母さんの声を聞いて、僕は瞬時に反応した。途中で何か大きくて黒い物を踏み倒した気もするけど、あまりよく覚えていない。「何するんすかねぇっ!」という悲鳴が聞こえた気もしないでもないけど、やっぱりよく覚えていない。

 とにかく僕とお義父さん、そしてなぜか顔がモザイク化された春原君が台所に行くと、杏さんとお義母さんに支えられながら椋さんが流し台のところで屈み込んでいた。

「大丈夫っ、椋さんっ?!」

「あ、大丈夫、です。少し吐き気がしただけです」

 えへ、と健気に笑う椋さんを見て、僕はへたり込んだ。安堵のため息が漏れる。

「もしかすると、椋ちゃんさっきの炒め物を食べぶごふぇっ!」

 春原君の顔に、お義父さんの鉄拳が叩き込まれる。

「春原君、椋ちゃんの料理になんか文句が?」

「な、ないっす……」

「でもびっくりしたわよねぇ、大丈夫、椋?」

「うん、本当に大丈夫だから」

「でも、どうして急に……」

 僕がそう呟くと、春原君がすかさず

「まさか椋ちゃん、お母さんになるtふぼげはぁっ」

 僕とお義父さんの炎の拳が空を切った。

「不謹慎だろうっ!」

「不謹慎だよっ!」

「す、すいませんっす!」

 すると、「ふ〜ん?」という合唱が、背後からした。振り返ると、片手を口元に添えて、不敵な笑みをする藤林母子が、椋さんと僕を生暖かい目で見守っていた。

「え、どうしたんですか?」

「あらあら、勝平さんったら……」

「ねぇ勝平、女の子の生理が止まって、吐き気がしたりするとさぁ、どういうことを意味するのかしらねえ?」

「え?どういうことって……」

 まさか

 え?ホント?

「椋ちゃん、どうやら本当に赤ちゃんができちゃったようです」

 椋さんに目を向けると、はにかむ様な笑顔を見せてくれた。

「え?つ、つまり何だね、その、コウノトリ君がやってきたとか、キャベツ畑でできたとか、そういうことかね、香織」

「あらあら、あなたったら」

 すると春原君が相変わらずモザイクのかかった顔で、へらへら笑いながら言った。

「あっはっは、そんなわけないって。こういうときはやっぱり夜の……」

 お義父さんの鉄拳。

 僕の神速拳。

 椋さんの剃刀トランプ。

 杏さんの六法全書。

 そしてお義母さんの料理百科。

 全てを受けて、春原君は昇天した。

「……柊君」

 しかしそこで話は終わらない。お義父さんは僕の胸倉をむんずと掴んで

「君ぃ?私の椋ちゃんに何てことをしてくれたんだねぇ?え?」

「あ、あわわ、おち、お、落ち着いて話し合いましょう、おと、おとと、お義父さん」

「貴様にお義父さんと呼ばれると虫唾が走るわい。さぁ言え、私の椋ちゃんに何をしてくれやがった?」

「あらあらあなた。椋ちゃんと勝平さんは夫婦なんですから、そういうことがあっても不思議じゃないですよ」

「そうだよ。恋人だったら問題あるかもしれないけど」

 その時「え?問題あるの?!」というような顔を杏さんがなぜかした。

「で、でも、私、勝平さんの妻だし、その、勝平さん大好きだから、え、えと」

「あらあら、あなた、自分の娘にそこまで言わせるんですか?」

 むむぅ、とお義父さんは唸ると、その場に真っ白く崩れ落ちた。不意に、リビングの時計がぽーん、ぽーんと鳴り響き、大晦日の終わりを告げた。

「勝平さん?」

「あ、はい?」

 お義母さんがにっこりと笑う。そしていろんな意味のこもった台詞を、僕に向けて言った。

 

「おめでとうございます」

 

 

 

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